2010/08/23

おわりのはじまり。ていうか。おわってないのかもしれない。

 HMV渋谷店が閉店というニュースはいろんなところで取り上げられてますね。今まさに日テレで閉店間際、シャッターが閉まる瞬間の映像が映りました。

 最近僕は、自分の経歴を惜しげもなく隠し事なく暴いていこうと思っておりますんで、色々なおわりのはじまり。を書き殴ってみようと思ってみます。

 大学卒業後、というか、就活しながら色んな企業の面接を受けました。まあ、振り返れば、大学に入った理由というのが、四年間、バンド活動が出来るからというとても緩い理由でもあり。四年間もあれば将来の夢を考えられるだろうという。勉学に励むということは全く考えていない状態で大学に入り。四年生になったときに、「さあどうする?」「この先」というタイミングで。バンドは続けていたけど、食っていけるような様では無かったので、ここでも取り敢えず企業に就職しましょうという、安易な考えで、色んな企業の面接を受けました。とはいいつつも、音楽が好きだったから、レコード会社関連を受けましたが、すべて落ちまくり。一般企業も落ちまくり。何故か。俺が悪いのか。それもあるけど、僕の就活時期は、所謂バブル後の残骸が社会に蔓延していた時代。数年前は、企業がこぞって「入社しな〜!」ってどんな輩でも手招きして採用していたというよき時代が過ぎ去った時期であったのもあり。落ちまくり。そんな中でも、こんな俺でも、ふと面接を受けて雇ってくれたのが、知る人ぞ知る、オクトパス・アーミーなのです。
 オクトパス・アーミー。未だに数店舗健在です。僕が入社した頃は全国で(海外も含めて)50店舗ほどありました。主にメンズカジュアルの所謂、アメカジなるものの発祥でもあります。しかーし。バブル崩壊というのもあり、僕が入社したころから斜陽化していたのであります。当時の勤務先は、渋谷店。スペイン坂の入り口ですな。今は、何があるんだっけ…。ちょうど坂の下の入り口の角地です。斜陽化していたといっても、渋谷店は本店みたいなもので、客の入りははんぱなくて。土日と言えば、ダンボールに詰まった洋服が平均100個朝一で倉庫から運ばれてくる。それを数時間でさばいて、その日のうちに売りまくるというお店で。それから色々ありまして、僕がいなくなった渋谷店はいつの間にか閉店。年々お店が無くなっていきました。考えてみれば、今日閉店したHMV渋谷店って近くだよね。当時は、クワトロにあった店によくいってましたよ。そのHMV渋谷店もね…。
 改めて。僕はHMVで働いていました。数年前まで。さらに遡ると、先に述べた、オクトパス・アーミー退職後に、WAVEで働いてました。国内資本のCDショップ最大というね。そのWAVEにいた頃も、本店と言われ、「何でも揃うCDショップ」と言われた、六本木店が閉店というタイミング。とにもかくにも「終わる」という現象になにかしらいつも関わっていたということなのであります。
 まあ僕の経歴を当てはめて、全て終わりに繋げるのもおかしな話だと思います。ファッションにしろ音楽にしろ、流行という、時代の流れに乗るか反るかという。そいういう立場にいる職業ですから。その場にいれば、自ずと、終わりがあるし、自ずと、始まりに立ち会うことも出来るはずですから。
 とはいいつつも、僕個人は、始まるというよりも、「終わり」に立ち会うことがどうしても多い人生であるのは確かなのです。それを、今日、また、HMV渋谷閉店という「終わり」を味わうことになりました。
 この日記のタイトルにも標しましたが、「おわりのはじまり。」とね、「なんとか世紀少年」なタイトルですが。「おわりのはじまり。」なんですよね。全て。そういうことを学んでいます。学び直しています。これからも学ぶでしょう。
 ちょっと大袈裟な例え方をすると、人間が死ぬことも終わりということです。この歳になると、やれ、じいちゃんばあちゃん、おじちゃんおばちゃん、と。親族だけでも色んな愛すべき人達が死を受け入れて逝きます。その事実を受け入れるとき、とてつもない「刹那」がやってきます。哀しみという「刹那」。その刹那を消すモノは、やはり「生」なんですよね。この歳になると、やれ、甥っ子だの姪っ子だの、友人知人の子供だの。無邪気に生まれ来る「生」に溢れるんですよ。そこにあるのは「歓喜」なんです。「歓喜」。
 
 「刹那」と「歓喜」。

 もしかしたら、僕の人生の中で、「歓喜」の比率が少ないのかもって思ってるんです。感じる力が弱くなっているのかも知れません。「刹那」を重く抱きすぎて、「歓喜」を抱く対象をどこかで取捨選択して、素直に受け入れることが出来ていないのかも知れない。そう思うのです。しかし、終わりがあれば始まりがあるということは絶対的な事実だから、始まりをもって浴びることが必要なんじゃないかなって思い始めてます。

 なんかこの日記、錯乱してますが、いっつも僕はこんな感じです。

 そうそう。僕は、満たされない「歓喜」を抱くために音楽を聴いているということなのだと思います。今、改めて、思いました。だから、終わりが見える音楽はあまり好まないんだなって。そう思うのです。
 どういう表現でもいい。何かが終わってしまった、終わることを知ってしまった音楽にとてつもない光り輝く希望を抱くのであろうと。

 そういう結論で、久し振りのブログを閉めようとおもいまーす。

 おそまつ。
 

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